コ ヘ レ ト の 言葉

ひとりごとに書いた文章をまとめて載せています。興味ある方はお読みください。

コヘレトの言葉ー1

 このページにアクセスしてくださった方は、この「コヘレトの言葉」ってご存じでしょうか・・・・?旧約聖書にかなり詳しい方でないと知らない
 ことかもしれません。

 旧約聖書の中に書かれている文章です。私がバプテスマ(洗礼)を授かった約50年前の旧約聖書では「伝道の書」という題名で書かれていた
 箇所で、若かりし頃の私には理解し難いけれど何故か心惹かれるところでした。

 NHKの「こころの時代」という番組の宗教・人生部門で放映された(2020年4月~9月放送)内容が「それでも生きる」という短い書籍となって
 出版されています。
 これを、2021年12月31日に読みました。とても読みやすい本でしたが、一度で理解するには難しく、何度も繰り返して読みたくなる本でした。

 この書には、「先の見通せない時代をどう生きるか・・・。」が書れているように思えます。コロナに翻弄され、努力が報われない、先が見通せない
 現代をどう生きるか・・・に通じているかもしれません。

 コヘレトは言う「なんという空しさ 何という空しさ、全ては空しい。」から始まり、終わりにも「何と空しいことか・・全ては空しい・・。」と
 書いています。ちょっと仏教的響きのある言葉ですが、多分仏教の「空」とは意味合いが違っているとも、理解できます。

 この本の著者である小友聡先生は、この「空しい」を原語のヘベルから「束の間」と言う意味合いに置き換えられる、「束の間」に置き換えてみると
 良い‥と言っておられ、そう置き換えて読むと「なるほど・・・」と納得出来ました。
 原語はヘベルで「ヘベル」は、英語では色々な意味に訳されていると言うことで、その意味合いの日本語で「束の間」とも受け取れると言って
 おられるのです。

 全ては「束の間」であるから「束の間」を楽しもう・・・・「束の間」であるから、思い煩わないで生きよう・・・「束の間」であるから神の秘儀を受け
 入れよう。正しい生き方をしているのに、何故こんな苦難を与える神を…と恨まず、暗いトンネルの先を目指して生き抜こう…束の間で
 あるから・・・。と訴えているのかもしれません。

 このコヘレトの言葉で最も有名な箇所に「全てのことには時がある。」という行があり、よく引用される、印象に残る箇所です。

 何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
 生まれる時、死ぬ時  植える時、植えたものを抜くとき  殺す時、癒す時  破壊する時、建てる時  泣く時、笑う時  嘆く時、踊る時
 石を放つ時、石を集める時 (中略) 黙する時、語る時  愛する時、憎む時  戦いの時  平和な時。
 (コヘレトの言葉 3章 1節~8節)

 コヘレトは「神のみ業(先に起こること)は見極めることはできない。だから秘密は秘密のままにして、太陽の下では、食べ、飲み、楽しむべきだ。
 日々の労苦に伴う楽しみという現実を担って生きよ。」と勧めているようです。

 そして、人生の終わりを意識せよ…と言い、死ぬ日を意識することによって人生が終わることをきちんと受け止めるからだ・・・と加えていました。
 若き日には意識しなかった自分の死・・・この年になって、この文章の実感があります。長く生きたからか・・・?それとも、自分の死が近くなった
 からでしょうか・・・今、死ぬために生きている実感がよく伝わります。

 コヘレトは「人生は楽しむものであり、労苦することで楽しめる。」と繰り返していると書かれていました。

 新しい年を迎え、心の区切りを感じて心機一転生きる機会を得て、正月という時間を楽しもうと思います。    (2022年1月1日)

 ※NHK・Eテレこころの時代再放送の書籍・「すべてには時がある」は2日以降に読み進めたいと思っています。

 追記=私はキリスト信仰を得てから50年以上経ちますが、理解できていることは少なく、今だよく理解できません。それなのに、神を畏れ敬う
 気持ちは捨てられません。生まれ持った信仰深い性格・・・・? 

 キリスト教では、神からの愛によるものだと言われていて、私が神を選んだのではなく、神がわたしを選んだと、説き明かされています。
 あなたは神に選ばれていることに気づいていないかもしれない・・・・・もしかすると気付くべきかも・・・?


コヘレトの言葉ー2(時効になった恋バナ)

 若かりし頃私、2度の恋をしています。今になると懐かしい。50年以上前の思い出なので書いてみます。このページにアクセスしてくださる
 あなたにもきっと、思い出があると思いますが、好い思い出となっていることを願っています。

 一度目は高校2年生の時から4~5年のお付き合いでしたが、一級先輩で相思相愛であったにもかかわらず「人を好きになるって、こんなに
 苦しい事なんだ。」と感じて辛かった時が多々ありました。しかし、彼はとても誠実な方で、ふてくされ気味の私を前向きな性格に成長させてくれ
 変えていったお付き合いをしてくださって、感謝しかない思い出となっています。そしてあの年齢でしか出来ないお付き合いでした。

 2度目は・・・。

 総合病院の栄養士となった私ですが、都合上2年余り図書室の司書(司書の資格も持っていましたから・・・)をしていました。病院の図書室では、
 コヒーや紅茶、日本茶を用意して希望に応じてお出ししていましたが、お昼休みに昼食を取った後、毎日私のいる図書室にコーヒーを飲みに
 来られる内科医がおられました。

 どうも私を好きでいて下さっていたようで、「好き」が駄々洩れていて、気付いてしまったのです。

 しかし先生はもう結婚されていて、進展は不可能な状態でした。お互い節度はわきまえる性格でしたので、職場のお付き合いで、続いていましたが
 何時しか私も好きになっていて、足音で先生が分かるほどに気持ちが進んでしまっていました。

 毎日30分ほどお昼休みにコーヒーを飲みに来られるのが楽しみになっていました。

 その先生はちょっと太め・・・モテるタイプではなかった様ですが、誠実さと知性がお顔に出ていて、私はそのお顔が大好きでした。お人柄も素敵で
 好きでした。

 時々、病院の仲間で、ドライブや旅行、海水浴などに出かけていましたが、いつも先生は私が参加するグループに参加されていて一緒でした。

 ある海水浴に行ったとき、一人で岩場に座ってみんなを見ていた時側に来られて、「なぜ、泳がない。水着にならない・・。」とからかわれ、
 「お見せするほどの肉体美ではありませんから・・・、自信ありませんから・・・・」なんて談笑していた時先生がふと「自分が結婚して
 いなければ・・・・結婚する前に出会っていれば・・・・」とつぶやいたのです。

 その場はなんでもなかった私でしたが、下宿に帰ってから心が騒ぎ始め苦しくなってきました。2度目の「人を好きになるって、こんなに苦しい
 ことなんだ・・・」が始まってしまったのです。

 それから私は結婚を真剣に考えるようになりました。「早く結婚して、ここから離れたい・・。」と思うようになったのです。

 それまで結婚する気もないのに、親が勧めるお見合いを親への義理から仕方なくしていた私が、真剣に結婚を考えてお見合いをするように
 なったのはその先生のせいでした。先生に会わない状況を早く作りたかった・・・。

 お見合いで、何度か適齢期の男性にお会いしているうち「この人がプロポーズしてくれるなら、結婚しよう・・・。」と感じた人が現れ、その方が
 結婚の意志を示してくれました。それが現在の夫です。

 一度目の彼は、一つ年上で長身、スポーツマン、ちょっとイケメン。二度目の先生はちょっと太めだけれど知性溢れる素敵なハンサム、3度目の
 夫は背が高くなく、普通の顔。段々見かけが落ちてゆく・・・。でも、この結婚大当たりでした。確信もなく…嫌いでないから、と言った理由で
 結婚した割には、大当たりでした。

 旧約聖書の「コヘレトの言葉」には、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」と書かれています。
 この現象は、「時」であったのでしょうか・・? そして、この結婚相手も神が用意した私の相手だったのでしょうか・・?
 そうだったとしか思えません。

 結婚後最初に夫の良い所に気づいたのは、「ありがとう」という事・・。夫は私にものを頼んだ時、してあげたことに対して「ありがとう」と
 言います。それまで、両親や家族の間でほとんど「ありがとう」の言葉を聞きませんでしたので、新鮮で心優しく感じました。
 「この言葉好いなー」と感じた私は、夫に対して始たお返しの最初の言葉です。この結婚正解だったと感じた夫の言葉の一つでした。

 結婚して、25年後、再び地元に帰ってきた私は、その先生に会いに行きました。お年を取られてか、歩くのが多少困難な状態になられた先生
 でしたが、素敵でした。その時も今だ好きでした。もう、20数年前に亡くなってしまった(60歳過ぎで病死)先生は今、天国でどうされて
 いるのかしら・・?と気になります。           (2022年2月1日)