松 山 の お 話 し



常信寺の桜

 快晴の日、お花見に行ってみました。時々桜の時期に来る「常信寺」。ここの桜は素敵です。ミニ吉野山と言われていた山にも一面桜が
 咲いていたのですが、松山神社側山の山の桜は切り落とされはげ山と化していました。

 しかし、他は相変わらず、綺麗に咲いていました。

 日本のお寺は自然が似合います。桜、つつじ、アジサイ、苔、紅葉、雪景色ほかが良く似合います。観光場所、心落ち着く所です。
 今年の桜は、こんな具合でした。       (2025年4月4日)


松山名物ご飯

 松山の名物食事の一つに「松山鯛めし」があります。

 鯛一尾をお釜でお米の上に置いて味付けして炊き込み、身をほぐして
 ご飯に混ぜて食べる、「炊き込みご飯」です。

 南予・宇和島の辺りでは、食べ方が違っていて、暖かいご飯の上に鯛の
 お刺身を乗せて味の付いた出し汁でお茶漬けで食べます。

 どちらも、美味しいです。ご賞味あれ・・・。


 「鯛ソーメン 」写真手前、これも名物料理です。鯛の切り身を焼いたものと
 薬味を添えて、ソーメンで食べます。美味です。   (2025年1月25日


司馬遼太郎と松山

 司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」はNHKのドラマにもなった壮大な歴史小説です。

 1968年4月22日から1972年8月4日まで1296回に亘って産経新聞・夕刊に連載され、司馬遼太郎氏の40代ほとんどを
 つぎ込んで書き下ろされたと言われています。

 明治維新の松山を舞台として始まる、日本が近代国家として歩みだした時代の歴史小説です。登場人物は、秋山好古・真之兄弟、
 正岡子規・夏目漱石ほか歴史上に名前を残した錚々たる人物が登場する物語で、日露戦争に勝利する頃までが描かれています。

 「上って行く坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。」との
 書き出しで目的に向かって邁進する明治初期の人々を描いています。

 NHKのドラマでは、愛媛出身の私にとっては懐かしい風景やおじいちゃんから聞いていた日露戦争の話などとても気になるドラマで、熱心に
 楽しみに見てしまいました。

 松山市内には、秋山兄弟の生家や銅像・お墓などの記念地や「坂の上ミュージアム」・「子規記念館」などの記念館もあり、ドラマの映像に
 出てくる松山城や屋根付き橋(カバーブリッジ)などの観光場所が多く、「坂の上の雲」ファンの方には、見どころの多い土地です。
                             (2023年1月7日)


季節限定スイーツ

 松山には古くから「お菓子屋さん」として営業する会社があります。「一六本舗」「六時屋」
 「ハタダ(畑田)」「うつぼ屋」「(株)母恵夢」「(株)薄墨羊羹」ほか数多くありますが、
 お土産として有名どころは、「坊ちゃん団子」「薄墨羊羹」「タルト」「母恵夢」などが知られて
 います。

 以前、関東地方に住んでいた頃「松山に帰省する・・。」と言うと決まって「ゆずの香りのする
 あんこを巻いたタルトを買ってきて・・・」と、頼まれたものです。

 当時、ゆず餡子のタルトがよく知られていたようでしたが、そのタルトを製造している
 「一六本舗」が
わたしの住まい近くに店舗を構えていて、スイーツが欲しくなると買いに
 行きます。
 そこに季節限定で、餡子や周りに巻いたカステラ生地に香りを付けた「タルト」が発売されています。その中から二つを紹介します。
 温州ミカンのかおり・桜の香りのタルトです。(春限定)このほかにも限定品は販売しています。

 紹介の二品、お花見に持ってゆくとぴったりで、保温性のあるポットに日本茶やコーヒーを入れて、桜が咲いている公園のベンチや芝の上に
 座って、ティータイムも気持ち良いです。お試しあれ!!

 また、この季節に松山を訪れた観光客の皆様には、この限定品お勧めです。      (2022年4月12日)
                            
生木(いきぎ)の地蔵
 
 松山市潮見に「いきぎ地蔵」という松の木の死木が地蔵として祀られている場所があります。

 そこには右写真の文章が書かれてここに祀られた由来が、書かれています。松山市和気からキリスト教が松山に上陸したと言われて
 いることから和気に近いこの潮見に祀られたと思われます。由来についての文章は下記の通りです。

 1,587年(天正15年)伴天連追放令につづき1,639年(寛永16年)鎖国令が布かれたことによって追っ手を逃れ、行き場を失って
 隠れキリシタンとなった信者たちは、やがて石に祈りを託すようになり、マリア像の石柱を松の根元に植え込んで密かに崇拝していたものであろう。

 松は次第に大きく成長し、いつの間にか石柱のマリア像を抱きかかえるようになったが、その松も寄る年波には勝てず、やがて枯死するに及んで里人たちは
 根株に抱かれたマリア像にいたく感動し、お堂を建立して供養するようになったと言い伝えられている。

 急な細い道を上ったミカン畑の一角の小さなお堂の中に安置されていました。

 当時の松山の人々や真言宗のお寺では、隠れキリシタンを暖かく見守っていたと伝えられていますから・・・密かに崇拝していたとしても、
 この地方では見て見ないふりをされていたとの言い伝えがあります。      (2021年10月8日)

 注=これ、松山市の「松山スマイル・ウォーキングマップ」という小冊子に載っている一つのコースの途中にあります・
    約2qの短いコースですが、坂道が多い史跡めぐりのコースです。お暇な折にお立ち寄りください。


キリシタン灯ろう

 四国88ケ所53番札所・圓明寺の境内の隅に「キリシタン灯ろう」という遺跡を設置している場所があります。
 大師堂の左側壁際に設置されている、高さ40センチ程の灯ろうで、彫られている像は「マリア様」だといわれているのです。

キリシタン禁制時代に、隠れキリシタンの礼拝を黙認していたと伝えられていておおらかな地方だと言われています。

松山の和気浜あたりからキリスト教が松山に上陸した・・・と伝えられていて、それを記念してここに設置されていると語り継がれて
いるものです。

四国88ケ所の真言宗のお寺の境内にキリシタン灯ろうが置かれているのも面白いですが、真言宗の教祖お大師様は、
「同行二人」といわれ88ケ所巡礼中はいつも側で共に付き添って下さると言われていますから

キリスト教の「イエス様と共にいる。」という信仰にとても似ていて、共通点の多い仏教の信仰だとも感じます。

真言宗は9世紀初頭に改組されたと聞いていますので、キリスト教の歴史が古いと思いますが、遠い日本に生まれた信仰が
似ていることに不思議を感じるとともに、信仰はもしかして「同じ形・・・・?」なんて思ったりします。ちなみにこの圓明寺は、
松山市和気1丁目182番地にあります。
                      (2021年7月17日)


 
          道後温泉本館
 飛鳥の湯 飛鳥の湯・大浴場 
道後温泉
 
日本最古の温泉と言われる「道後温泉」は松山でも最も有名な観光地として賑わっているところです。

 古くは聖徳太子も、この地を訪れて、温泉に入浴した と伝えられています。



  カラクリ時計 


道後温泉駅 
 伝説では、足を痛めた白鷺が湧き出した温泉の湯に浸かった
 ところ、痛めた足が治癒したのを見て、人々がこの温泉に
 浸かるようになったことから、道後温泉の歴史が始まった
 という…伝説があります。

  道後温泉本館は、三千年の歴史を誇る温泉で、
 国指定重要文化財・美しい日本の歴史的風土百選・残したい
 日本の音風景百選にも選ばれた、多くの人に愛されている
 温泉でもあります。

 現在、令和6年末の完成を目指して、公衆浴場の営業を
 続けながら保存工事を行っています。各イベントを行って
 観光客の皆様や市民の興味を落とさない努力に勤め、
 修復された美しい保存に耐える本館を目指しています。
新型コロナ感染拡大防止のため、少なくなっていた観光客も徐々に戻りつつあり、賑わいを見せ始めました。 
路面電車の道後温泉駅も大正時代の建物を保存、しっとりとした歴史が漂っていて情緒豊かです。そしてその向い側に立つ
「からくり時計」は、
おすすめのご当地からくり時計を専門家が選んだ「日経新聞プラス1ーなんでもランキング・からくり時計の部」で
一位に選ばれるなど、見どころは豊かです。

瀬戸内海の新鮮な魚介類や自然豊かな土地で育った野菜・果物を使った郷土料理も逃せない旅行の味わいです。
               (2020年10月17日)
 

松山と俳句

俳句は、5・7・5の句に、季語を入れて作る最短の詩で、正岡子規が徘徊革新運動により確立した詩歌です。

正岡子規が、松山出身であったためか、ここ松山では俳句が盛んで、松山のイメージを作っているものの一つでもあります。

愛媛中予(真ん中の地域)では、小学生高学年くらいから、国語の時間に俳句のお勉強をしますし、街のあらゆるところには
「俳句ポスト」というポストが設置され、いつでもどこでも思いついた俳句を投稿して審査を受けることが出来ます。

俳句甲子園なる高校生の俳句の戦いまであります。これ、すごく面白いし、高校生の教養の高さと作る速さと瞬発力に
圧倒されます。全国の高校から予選を勝ち抜いた5名のチームが2チームごとに戦ってトーナメント方式で優勝チームが
決まります。(詳しくは、俳句甲子園公式ホームページをご覧ください)今年は確か23回目の大会を募集中だと思います。

松山の近辺や公園では、メモ帳を持って俳句制作に励む高齢者グループをよく見かけますし「俳句街道」と命名した道も
あります。

交差点の電光掲示板では、俳句甲子園や数々の俳句大会で優秀な成績を収めた俳句が紹介されていて、信号待ちの間に
読むことが出来ます。

これ程にこの地方の人々に愛され定着している、そして参加しやすい芸術として生きています。これ地域の教養向上や
認知症予防、楽しみとしての役割は大きいと当ホームページ管理人は大きく評価している事柄の一つです。

最近「プレバト」と言うテレビ番組が放映されるようになり、全国の皆様に俳句が愛され興味をもたれるようになってきたと
思われます。夏井先生という、ちょっとバラエティー向きの添削が素晴らしい先生が、俳句人気を高めているとも
言えそうですが、松山に住む私は嬉しい悲鳴を上げています。
                          (2019年2がつ28日)


ネットの情報=室町時代に流行した連歌の遊戯性、庶民性を高めた文芸が俳諧であったが17世紀に松尾芭蕉が出て
         その芸術性を高め、なかでも単独でも鑑賞に堪える自立性の高い発句、すなわち地発句を数多く詠んだ事が
         後世の俳句の源流となる。 さらに近代文芸として個人の創作性を重視して俳句を成立させたのが明治時代の
         正岡子規であった。

松山と夏目漱石

夏目漱石が書いた小説「坊ちゃん」は、漱石の本で最も読まれている小説と
言われていますが、明治28年4月から1年間、今の松山東高校の前身・愛媛県
尋常中学校に赴任した時の経験をもとに書かれた大衆的小説と言われています。

登場する人物が滑稽で、多少松山人を皮肉って描いたと言われるほどに、
悪口雑言、痴情のもつれ、暴力、義理人情ありで、親しみある小説です。
もともとこの愛媛の地域には、「よもだ」なる方言もあり、この意味は「言わなくても
よいことを言ってしまう者、筋道の外れたことを言う者、行う者」で、こうした発言や
行いが漱石の関東人のプライドを傷つけたこともあったのかもしれません。

 注=この「よもだ」は男性に使われることが殆どです。「よもだな奴やなー」とか
   「よもだ言わんと、はよおしや(早くやりなさい)」とか・・・・。

しかし、松山人はこれを大いに利用して、観光に、またお土産の名称に利用して
います。「坊ちゃん電車」など当時の「ちんちん電車」を復元して観光利用しても
いますし、「坊ちゃん劇場」と命名された、この地方の話題を題材にした
ミュージカルを上演している劇場もあります。
そして「坊ちゃん団子」というお菓子もあります。これあんこだけで作られていて
面白い味で美味しいです。

「松山」とか「道後温泉」と言うと「ああ、坊ちゃんの・・・・」と言われるほど、松山や
道後温泉とは結び付きが深く、松山のイメージを形成するものの一つでもあると
言えそうです。      (2019年2月20日)
 

     坊ちゃん電車   
 

坊ちゃんと  
不思議な
仲間たち

 

坊ちゃん団子

万葉集と伊予道後(松山)

「熟田津に 船乗りせんと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」 額田王が詠んだ万葉集に収められている和歌と
されています。

この塾田津とは、伊予道後近くの古代の港であると言われていて、現在も道後近くに「にきたつ通り」という通りが存在して
います。

斉明7年(661)に今の九州に向かう途中立ち寄り、潮の流れの良い時間を待っていた所、潮の流れが良くなってきたので、
「さあー漕ぎ出して出発しよう・・・」という状況を読んだと言われています。

この塾田津は山口県にも数か所地名があり、道後であるとは定かではないと言う説もあるようですが、私たち伊予人は、
松山であると信じて止みません。しかし、松山の中でも場所は特定されておらず、三津であるとか・・和気であるとか・・重信川の
中流河口であるとか・・・説は色々ですが、日本最古の温泉と言われる道後温泉があることから、この温泉に立ち寄って九州に
向かったのではないか?と想像している訳です。

ちなみに「額田の王」は天地天皇の寵愛を受けた美しい才女であったと言われていますが、大海人皇子(天武天皇)の妻で
あったのを、権力や恐怖政治の力で横取りしたと、万葉集研究家から聞いたことがあります。その先生の想像力の上に
成り立っているやもしれませんが、それほどに美しく知性溢れた機知に富んだ女性で魅力的な女性であったようです。
                     (2019年2月15日) 

松山の名の由来

この地方は「伊予の国温泉群」と言われていた時代が約1000年程あると言われて
いますが、慶長8年(1603年)にこの地方の領主であった加藤嘉明(よしあき)が
松前から城を移し松山城を築城した際に、この地方を松山と命名したと言われて
います。

天下を収めていた徳川家康の姓「松平」から「松」をもらい、この辺りの中心部の
名称「勝山」を「松山」と改めて命名したそうです。

そして、この「松山」の地名を用いて「伊予松山藩」を立藩したと言われていて、ここから
松山という地名が始まったと言うのが最も有力な由来と言われています。

ちなみに、この「勝山」は現在でも松山城東中心部に町名や駅名・通り名で存在して
います。         (2019年2月10日) 


市内から見た松山城