わたしの宗教感覚


信仰心の不思議

 私は、18歳くらいまで実家の宗教・禅宗曹洞宗&三島神社信仰の家庭に育ちました。毎朝お茶祷の習慣があり、湯気の立ったお茶を仏壇に
 供えて手を合わせ「今日一日、何事もなく元気で過ごせますように・・・。」とお祈りをしていました。

 それが20歳過ぎたころに、キリスト教(バプテスト派)に出会い、キリスト教に改宗しました。

 しかし、改宗して10年過ぎたころ、ちょっとした失望から教会を離れていましたが、信仰心は消えず、テレビによる番組などで、聖書の話を
 聞いて過ごしていました。でも結局教会に戻って、礼拝に参加する信仰生活に戻っています。

 信仰っていったい何なんでしょうね。日本でのキリスト教は、信仰が続く人は少なく、段々信者数も減ってきています。

 アメリカ人宣教師が頑張って布教していた戦後の時代には、若者も多く教会に集まって活気がありましたが現在、教会には高齢者が多く若者は
 数えるほどで、将来的に不安な状態です。後継者不足。

 いつしか建物だけ残って信者がいない教会へと変わっていくのかしら…と思えてきます。

 お寺や神社にも、和尚さんや宮司さんのいない神社仏閣が増えていることは確かです。過疎地の神社やお寺には、住人のいない建物だけの
 神社やお寺が多くなってきました。しかし日本人って、無人の神社仏閣でも手を合わせ一礼して通り過ぎる謙虚さを持っていますが・・・。

 信仰が人間の良識や良心を保っていると考える人は多いですが、私は別物と思います。だからと言って信仰は必要ないとも思えません。
 平和で穏やかな暮らしの中にあってこそ、この平穏への感謝を示す相手があって…謙虚であると思えてなりません。

 どの宗教でなくてはならない・・・と争うのではなく、感謝して生きるために、畏敬の念を持つ対象は必要かと考える今日この頃です。
                 (2023年9月16日)



キリスト教会牧師の悲痛な叫び

 
You Tubeを見ていると、日本基督教団に属するある牧師が、「このままでは教会は疲弊し、消滅する・・・。」と悲痛な叫びを発信しておられます。

 私も他の宗派ですがクリスチャンなので、その叫びには共感しています。

 私が属する教会も高齢者ばかり・・・若者がとても少ない。そのため教会の運営に携わる人々は多くが高齢者です。そうすると信仰的考え方も
 高齢者時代の信仰の形で形成されています。

 若者にとってはこれが、今の時代に合った心のより所にはならないのでしょう。だから、魅力がない・・・。教会に様子を見に来られても
 継続しないようです。

 しかし、ある日のテレビを見ていると、韓国ソウルに観光旅行をした若者が、韓国のキリストの名をかたる新興宗教信者に声をかけれ勧誘される
 ケースが多くあり、その新興宗教(新天地イエス教会)は日本人の若者が取り込みのターゲットになっていると放映していました。

 韓国の文化や関心のある分野に焦点を当てて勧誘することで、いつしか興味を持ち、いつの間にか入信させられてしまっていたという・・・ことも
 あるようです。

 本来信仰とはどういう意味を持っていたのでしょう・・・。若い世代の心に合った信仰の形とは、どういうものなのでしょうか・・・?

 昭和世代の考え方で信仰を語っても、若者には共鳴しないという事でしょうか・・・・。 この牧師は多方面から考察し、会員が段々減っている数値を
 示しながらご自分の考えを発信されていますが、この危機感が牧師にも信者にも無く、ただ維持することにのみ信仰生活が続けられていることに
 危機感を覚えておられるようです。

 私の実家の宗教(曹洞宗)の菩提寺は、和尚さんが、「最近檀家が増えてきた。」と話していた。ただただ、お葬式と法事だけの繋がりである
 お寺さんとの関係ではあっても、檀家でいたい宗教心は人間にはあるようです。

 やはり、どこかには信仰の必要性は感じるのが人間のようです。ですから信仰はなくなることはありません。それなのに日本でキリスト教が人の心を
 捕らえられないのは、どこに問題があるのか‥‥信者も牧師も反省すべきなのかもしれません。   (2023年8月22日)


 追記1=韓国の新興宗教は、イエスの名を騙る傾向が強い・・・騙しやすいのか・・・?信用させやすいのか・・・・?残念だ・・・。旧統一協会も始め
      宗教団体名にキリスト教名を使っていた。(世界基督教統一神霊協会)一般には「キリスト教系新興宗教」と称されています。
      多くの人がキリスト教一派だと理解しています。「新天地イエス教会」もキリスト教一派の新興宗教だと理解している人が多い。

 追記2=このYou Tubeの発信の返信コメントに、限界集落ならぬ限界教会が日本中を埋め尽くす時代が来るかもしれない・・・と書いておられる人が
     いて、笑えない冗談だと同感しました。

 追記3=仏教や神道は、親が子供に教えて引き継がせてはいないのに、何故か心のどこかに浸透していて、感謝の対象やお祈りの対象のため
      存在している。キリスト教は子供を「神の御むねにそうように教え育て・・」ているにもかかわらず定着しない・・・。ここにキリスト教が
      日本で定着しない現状があると思われます。土着の信仰の歴史に圧倒されているのかもしれません。

      自然の恵みに満ちた穏やかな地域に住む民族には、自然の厳しい荒れ野に生きる地域の人々から生じた神の存在には気付きにくい
      のかもしれません。私も、イスラエルやヨルダンに旅行して、その土地に触れ、ただ中に立って見て初めて、このような土地から感じる
      唯一の神を実感したものです。こういうところでは、神は一つにしか感じない…ことを実感したものでした。

      八百万の神に感謝して希望をお願いして生きることが自然体の民族には、畏れ多い唯一の神には気付かないのかもしれません。
      確かに、自然と一体になった神社やお寺には、神聖な空気と体に語りかける自然のパワーを感じてしまいます。それによりいつしか
      生きている有難さや恵みへの感謝も感じることから、体に沁みてくるのかもしれません。

      その点キリストの神様は「人格の神」と称する人がいるように、教えから成り立っていて自然に入ってくるのではなく、神の言葉を聞き
      生きるものとされているため、神の言葉を聞いて理解することから始めなくてはならない・・・・。

      教育は神の教えを学ぶことから始まっているとも言われていて、体で感じる信仰との差に対抗できないでいるのかもしれません。
      そして、土着の信仰は、長い歴史と共に生活の一部として日本文化や生活習慣となっているのも、土着の信仰を忘れさせない要因が
      あるのかもしれません。

      そして最近では、海外のキリスト教文化に生まれ育った外国人にも、日本の文化や信仰が興味の対象となって、88ケ所巡礼や宿坊
      体験・座禅体験、お寺や神社観光ほかが海外の人々に人気を集めています。

 追記4=私の好きな番組「ワタシが日本に住む理由」BSテレ東の番組です。今回番組300回記念特集番組で一度この番組に出演して日本の山
      「富士山」をエベレスト7000メートルくらいまで何度も登った山岳ガイドのネパール人からすると、「富士山は丘・・・」と言って
      しまった現在日本在住のネパール人が富士山に登ってみるという番組を見ました。

      彼は登る前に富士山に向かって手を合わせ丁寧にお祈りをしていた。悪天候で途中断念して下山した後も富士山に手を合わせて
      祈っていた。アジア人の体質でしょうか・・・?「登らせていただきます。」「途中までではありますが、登らせていただきました。」
      という神聖で謙虚な態度がそこにありました。

      キリスト教では山は「ただ山」で手を合わせて祈る対象ではありません。しかし現在クリスチャンである私も、この謙虚な姿勢は好きです。
      20歳近くまで土着の信仰心の強い実家で土着の信仰に触れて来たためでしょうか。

      この謙虚な姿勢を否定する気持ちは全くないのです。どうしても私は、「これは偶像礼拝です・・・。」なんて否定する気持ちは沸いてきません。
      そんなクリスチャンがいることも、クリスチャン減少につながっているやもしれませんが、多分愛の神は、この違いに反発しない
      生き方を嫌ってはいないと私は思うのです。私の神は「愛と恵みの神」ですから・・・。

      ただ私が思うに・・・日本人は自然と一体になって生きている。台風や地震・津波・豪雨・干ばつ、などの災害で自然の力に痛めつけられても
      恨むことなく自然と共に生き、自然の恵みに感謝して生きるのだ。キリスト教は、唯一の神のみを見て頭で理解する、知識(御言葉)の
      積み重ねが信仰の姿である。

      そこに、日本で定着しない問題点があると思われてならない。自然にたいして謙虚になることはなく、神の教えや畏敬にひれ伏し委ねることが
      信仰なのだ。日本の歴史は自然と共に生きてきている・・・自然は神が人間に管理させていると思う信仰とのギャップがあるのは当然かも
      しれない。

      日本人にとって、自然や他の生き物は敬意を示す同僚であり親友であるが、キリスト教では神が支配し人間が管理している対象で、感じ方が
      大いに違う。否定しても・・・教育しても・・・心から消えない共に生きる対象・・・これを否定する信仰に変えさせるのは難しいかも
      しれない。

 追記5=日本には「神対応」とか「野球の神様」とか「お客様は神様です。」とか、いちいち「神」をつけたがる傾向があります。
      そういう意味からすると、八百万の神は、神ではないかも知れない。敬意を示す対象を「神」と称し尊敬し讃えているようでもある。
      手を合わせ祈っていても、これ全て信仰によるものとは言えないものもありそうだ。「ありがとう。」や「あなたの強さや美しさを
      讃えます。」といった意味も多くありそうです。

      山や滝、古木や大きな岩などに手を合わせるのは信仰ではなく称賛であるようにも思う。日本人は他を称賛し敬意を示すことが礼儀で
      手を合わせて祈っているかのような姿勢は、信仰に基づいているのではなく、感謝や敬意・お礼であるかもしれない。

      日本人のお年寄りは、かなり高齢になると、訪ねてきてくれた人に手を合わせ「ありがとう。」と祈りの姿勢を取り始めます。私の母も、
      親戚のおばあちゃんもそうでした。日本人の、手を合わせ祈りの姿勢には、感謝の気持ちの表れで、キリスト教の祈りの姿勢とは
      意味が大いに違っているとも思えます。

 追記6=信仰心と道徳の関係について考えてみました。大方の国民がキリスト教国のイタリアやスペイン、フランスなどキリスト教国のイメージが
      強い国が道徳的に高い国民性かというと、疑問があります。旅行をしてみて、ぼったくりや泥棒・お釣りのごまか…ほか犯罪は
      日本より多い。中南米やギリシャなども同様でした。

      キリスト教は道徳心は高めない気がしてしまいます。もし高めているとすると…「高めてこの程度か…?」と失望するほどです。
      ですから日本よりずっと用心と防備しなくては、やられてしまいます。私と夫も何度も被害にあいそうな行為に遭遇したり、「お金は
      払った方が安全に済みそうだ・・・。」と支払うケースもありました。

      外国は日本に比べてずっと危険が多い国がほとんどです。宗教では人間性はあまり変わらない・・・。国民性というか社会性は別物と
      考えられます。

      それより最近では、旧統一教会や新天地イエス教会・エホバの証人のような宗教がキリスト教で、お金がかかる・・・お金を取られる…
      
伝導で小さな子供を連れて訪問しなければいけない・・・というようなイメージを抱く人も多くなってきました。

      確かに少人数で教会を維持するには、負担は大きくなり、お寺に属する場合は多くの檀家で支えるため、年会費などは少額のようです。
      しかしこれ、お金の問題で宗教を選んでいるわけではない・・・。仏教もお葬式や法事には謝礼やその他に費用が掛かり、度々法事や
      供養もしなくてはなりません。

      やはり信仰は「私はこの神を信じ生きて…その神のいう天国・極楽に行きたい・・・。」と思えることが大事だと思う。


母の三回忌

 母親が亡くなって2年間近。実家で三回忌がありました。近しい親戚が集まって、法要が行われました。その時の菩提寺の住職さんの講和は
 「供養とは、母を知る人々が集まって、母の思い出や集まった人々の現況を話し合うことです。」と言われていました。
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 どうもこうした法事などの仏事は、人が集まって会話する機会で、こうした機会を持つことが供養であると言っておられるようでした。
 供養とは・・・亡くなった人に対して冥福を祈る行為だと・・・冥福とは「あの世でも幸せであること」のようです。

 この住職さんは明るい方で、害のない冗談ばかり言って笑っていて、「春休み・夏休み・冬休みは、孫の面倒を見なくてはならなくて大変だ。」と
 嬉しそうに愚痴をこぼしていました。

 檀家の数も増え、跡取りも住職の資格を得て、安心状態のようです。まあ、住職は仕事(稼業&家業)にほかならない・・・特別なことではない
 ようです。瀬戸内寂聴さんが仏門に入られたような住職さんとは、仏門による生き方の重要性が多少違うのかもしれません。

 母も101歳まで生きて、もう少し生きていれば102歳が間近でしたが、10日程弱った後、息を引き取りました。コロナ渦で、一人で死後の世界を
 目指し看取ったのは主治医という状態ではありましたが、良い出発だったと思います。

 仏教では、「亡くなった人を思い出してあげることが、供養だと言います。」実家に集まってみると、「こういう関係も良いものだ・・。」という
 思いでした。
              (2023年4月9日)



感動した番組


 BS・NHKの深夜番組に「限界集落に住んでみた。」というものがありました。

 NHKの記者orディレクターが、一か月間山形の「とある限界集落」に住んで取材した内容をまとめた番組でした。

 数々の話題を盛り込んだ内容で、田舎で幼少期を過ごした私には懐かしく心地よい番組でした。

 その中に、「この記者が、この地で何かできないか・・・?」と神社の境内を掃除していると、手押し車を押したお年寄りが神社にやってきて
 拝殿の前に正座して、長くお祈りをしている老婆の姿がありました。その姿をカメラで動画を収録したものが流されましたが、とても感動する画像で
 素敵でした。このお年寄りは、雨や雪の日以外は毎日のようにここに来て、手を合わせていたようです。

 「何をお祈りしているのだろう。どんな信仰なんだろう。」と私のおばあちゃんの信仰を思い出したものでした。

 このNHKの記者も同じことを思ったらしく、後になってこのお年寄りにカメラを向けて聞いたのです。「長い時間何を祈っていたのですか・・?
 どんな気持ちで祈っていたのですか・・・?その姿があまりにも美しかったので聞いてみたくなりました・・・。」と声を詰まらせながら泣いて
 インタビューしたのです。この記者さん素敵なお人柄・・・気持ちの優しい人・・・・。感動しやすい人でした。顔が見えていない記者さんを大好きに
 なりました。感動してしまった。

 このおばあちゃんは記者に答えました。「家内安全や健康への感謝、子供や孫が元気で暮らせるように・・・と。私、欲張りなんで祈ることが
 沢山あるので、長くなってしまうんじゃ・・。」笑顔でした。

 それから、この村の男性たちが、この神社の修理や保存のための労働を協力して行っている動画も流され、2~3人の男性にインタビューして
 いました。

 その中に「これは、しなくてはいけない…と思ってやっているのではなく、したいのです。こうしたことをすると落ち着くのです。神社を保存する
 ことは、自分の気持ちをよくすることで‥これをしないと心がざわざわする・・・、これをすると落ち着くもので、しなくてはいけないというより
 やっていると落ち着くから・・・。」と答えていました。

 「解りますよ!!私も同じですよ!!信仰って、しなくてはいけないからではなく・・・祈る対象があると落ち着くんですよね。解るわー。」と
 感じました。

  だから、家族を犠牲にしてまでも全てを献金してしまう信仰感覚は理解できないのです。生活と共にある信仰が自然な信仰と思われます。

 信仰心を馬鹿にする人々は、「信仰は危険・・とか、あほらしい・・とか、無意味・・、」と蔑みますが、信仰心が自然な人にとっては落ち着く
 習慣なのです。特別なことではありません。気持ちがすっきりするからにほかならない・・・ただただ自然な行為なのです。
               (2023年1月21日)


信仰の不思議

 先日親戚に亡くなった人が出てお葬式がありました。近しい親族なので出席しました。私クリスチャンですが、いつもお葬式には出席します。
 死者に対して敬意を示し「過酷な人生をご苦労様でした・・・。」という気持ちで、死者の信仰儀礼に従ってお焼香なども行ってきますし、手も
 合わせます。

 しかし、キリスト教会の牧師には、色々な信仰姿勢があって、中には「他宗教のお葬式には出席してはならない・・・偶像礼拝に当たる。お香典も
 お焼香も、手を合わせることも禁止・・。」と説かれる牧師もいます。

 しかし私の信仰姿勢は、どなたも、どの信仰も問題としない・・・心の持ちようだと感じています。死者に対して愛があれば、お見送りすることに
 神は反対しない・・・と信じていて「願わくはこの者をもあなたの身元に引き上げてください。」と祈ってしまうのです。

 今回のお葬式は、「仏式で浄土真宗」という宗派のものでした。

 私の実家は禅宗・曹洞宗、夫の実家は真言宗で、今回の浄土真宗の葬儀には聞慣れないお経に驚きました。何か掛け声でもしているかの
 ような言葉として理解できないお経が多いのです。

 後になって、わりと仏教のことに詳しい甥に話してみると「あれはキリスト教で言えば聖歌のようなもの・・・歌として聞けば良いのです。」との
 答えが返って来ました。

 葬儀の時の祭壇も、お寺が縮小された祭壇に宗派の印なのか中央にお軸が飾られていました。.初七日も49日の法要もこの印が掛けられて
 いた。

 
すっきりとした祭壇で、両脇に置かれた送られたお花が祭壇を華やかにしていて、これらのお花が無かったらちょっと寂しいかな・・・?と
 思われるくらい無駄がありませんでした。

 この浄土真宗はNETで調べてみると、仏式の葬儀では、数ある宗派の中で最も信者数の多い代表的な宗派だと書かれていて、鎌倉仏教とも
 言われている様です。

 信心をもって往生すればすぐに成仏できるという考えだといいます。
 そのため浄土真宗は、他の仏教と異なり、「死者への供養」という概念はないといいますが、初七日と49日の法要を行ったのは何故でしょう。
 NETでは、死者を入棺する際の白色の旅装束もしないと書かれていましたが葬儀社は行いました。葬儀社はあまり宗派の教義にはとらわれず、
 仕事として慣例的に葬儀の儀式を行っていると思われます。

 この信仰は他力本願で、礼拝の対象は死者ではなく死者を導く阿弥陀如来であるとか・・・キリスト教と同じ天国に導くのは自分の修行ではなく
 神様・キリストである・・に等しい。また、臨終後はすぐに極楽浄土に行くので、故人にはいずれ極楽浄土で会えると言う・・・。
 「天国でお会いしましょう・・。」というキリスト教とも似ている・・。

 通例に言う「戒名」も浄土真宗では「法名」というとNETには書かれていましたが、多くは「戒名」と語っています。
 遺族も詳しい教義は知らず、葬儀社にお任せ状態で、深く宗派の教義を守っているとも言えない信仰心でもあります。
浄土宗の開祖は法然でその弟子が親鸞・・・親鸞が説いた信仰が浄土真宗の
ようです。

NETには、日本の仏教の宗派の比率が載せられていて、浄土系は46.34%、
次いで日連系が23.51%我が実家が信仰している禅宗系は11.20%
夫の実家の真言宗は11.48%だと載せられていました。

日本では、明治に出された大政官布告で、「肉食妻帯」が公に認められた
そうですが、浄土真宗は最初から「肉食妻帯」を認めていて、親鸞はその方式を
初めから実行していたと言います。(2022年11月22日)

追記=ちなみに日本のキリスト教信者は1%程度だとか・・・。
 NETに信者の礼拝出席率という掲載があり、私の所属する「日本バプテスト
 連盟」の出席率は36%だとか・・・。
 日本のプロテスタントキリスト教会では第2位の出席率。
 バプテスマ(洗礼)を受けても教会に来なくなり献金しなくなる信者は
 多いです。

 宗教の世界は神聖でもあり、不思議でもあり、めちゃくちゃでもある。
 だから恐喝まがいの献金を迫る宗教も出てくるのかもしれない。


母が天国へー1

 先日母が亡くなってしまいました。享年101歳でした。長生きです。10日ほど前から食べなくなって点滴をしてもらっていましたが、
 急に天国に上って行ってしまいました・・・・。きっと父が迎えに来たのでしょう。

 私、6月半ば頃に父の昔話をこのHPの「ひとりごと」に書き込みをして、「父が母にぞっこんほれ込んでいたが、101歳の母をまだ迎えに
 来ません。天国で好い関係の女性が出来ていないことを願っている・・・・。」などと冗談で書き込んだ1ケ月位経った頃から母は、ものを
 食べなくなって、体力がなくなって行きました。

 天国にいる父に、母への思いを思い出させたでしょうか・・・?「早く迎えに来てあげて・・・・。」との意味ではなかったけど、ちょっと
 気になります。

 しかし、コロナで縛らく会えなかったので、様子はわかりませんが、時々面会を許可されていた兄の話では、元気だったようなので、突然と
 言えば突然急変してしまいました。

 ただ、面会が許されていた頃から・・・ただ生きているだけ…という状態で、「長く生きるのも面白いこともないようだ・・・。」と感じていたので、
 父が迎えに来たのなら、これで良かった・・・、と思えます。よく長生きしてくれました。私たちに生き様を見せてくれて、何かを教えていた
 ようでもあります。                 (2021年7月30日)

母が天国へー2

 お通夜と葬儀がコロナの中行われました。

 近しい親戚も参列して頂き静かにとり行われ
 好いお葬式でした。

 綺麗な顔をして眠っていて、安心して見送り
 ました。

 クリスチャンである私から見ると、仏式の
 お葬式は行きとどき過ぎと感じるほど
 丁寧で、資金もかかります。
 そして、仏事が度々行われるため、しばらくは忙しいことでしょう。キリスト教では、葬儀と納骨だけの簡素なものですが、毎年イースターの日に
 先に召天された方々を偲んで、教会の共同墓地で「墓前礼拝」をして「天国で会いましょう。」という合言葉のもとに知人を思い起こしていますが、

 仏式での喪主の兄は経済的にも大変でしょう。そして、「お疲れ様・・・」という感じでした。母には「お父さんのところにお行きよ。迷われんよ。」
 と、死顔に声掛けしておきました。父と同じ場所を目指して旅していると思います。

 働き者で気丈な母は、まあ人に愛され、夫や子供に愛され、親戚にも慕われ、幸せだったと思います。「おかあさん!これで良かったね。」

 追記=実家の宗教は仏教(曹洞宗・総本山は永平寺)神仏混合で三島神社も信仰しています。   (2021年7月31日)


お盆

 先日、お世話になってきた夫の姉の家のお墓を掃除に行ってきました。子供のいない夫の姉が介護施設に入居して、お墓の掃除ができない
 状態にあるので、代わりにお掃除に行ったのです。

 多くの人が、お墓に来ていて、知らない者同士「こんにちは・・。」と挨拶をして自分のお墓をきれいに掃除して「しきび」を新しく入れ替えます。
 好い光景でした。

 日本人は無神論だ・・と言いますが、決してそうではありません。大抵こうして、お盆やお彼岸、お葬式や初盆、没後初めてのお正月の行事など、
 丁寧に死者を祀り、見送り、供養しています。そして、お寺や神社の前に行くと、一礼して通り過ぎたり、お賽銭を入れて手を合わせて
 立ち去ります。 結構信心深い・・・。

 神社の行事もお祭りで「五穀豊穣」を祝ったり祈り、初詣に行きますし、お正月などの飾り物や家庭での儀式は守り続けています。
 好いことだと感心しています。

 私はキリスト教徒ですが、仏教徒と神社信仰の親戚は全く嫌っていませんし、反発もしません。偶像礼拝とも思っていないのです。

 私の信じる神を嫌われないためにも、争いたくないからです。出来れば共存してゆきたい・・・。

 どの神を信ずるかは、個人の自由で良いと考えています。信仰で争いたくはない・・。しかし、今問題になっている
 「旧統一協会(世界平和統一家庭連合)」には、問題が大ありだとも思います。

 仏教でも神道でもキリスト教でも、寄進や献金はありますが、必要な額の単位が大きく違っていることには疑問があります。なぜそれ程な高額な
 献金を要求するのか・・・?どう使われているのか、信者には報告されているのかが疑問です。

 そして、自由に脱会できるのか・・・?脱会した人が世間で自由に暮らせるのか・・・・?心配になります。

 親戚のお墓を掃除しながら、信仰の世界には多分、差別はない・・・。世間に・・そして人間に害を及ぼさない信仰が共存して、心に養分を与え
 平安に生きられる信仰でありたい。そう願って止みませんでした。         (2022年8月13日)


 追記=お正月前にも、主人の姉の家のお墓を掃除に行きます。主人の姉にはお世話になったので、「このくらいのお返しはしようかな・・。」と
     いう思いでやっています。春と秋のお彼岸のお墓参りも・・・・。年に4回のお墓掃除です。

人間の間違い

 NETのニュースによると、キリスト教・カトリック「ローマ教皇」がアメリカのカトリック雑誌「アメリカ」のインタビューで、ロシア部隊の
 残虐性について、「チェチェン人やブリアート人部隊によるもの・・。」と語ったと電子版は伝えているという。

 チェチェン人はイスラム教徒が多く、ブリアート人は仏教徒が多いという。

 この発言で、少数民族への差別や宗教差別発言だとメディアが批判していると伝えていた。

 神様はそんな差別はしない。教皇自身の人間性による発言と思われる。もともとこの軍事作戦事態が間違っているもので、その戦争の
 内容がどう…という問題ではないはず。教皇といえども人間で神ではない・・・。間違いを犯したのだと思う。

 キリストの神は、そういう神ではないのです。そして、キリスト教の一派であるロシア正教も、プーチンを支持していて、ロシアに従って
 戦いを止めることが、神の平和と語っているという。これも人間の誤りで、武力で従わせロシアが支配することは神の平和ではない・・・。

 神を自分の味方につけ言い訳し、正当化する信仰姿勢が間違っていると思っています。
 ローマ教皇は「自分の発言は間違っていました・・。これは神の思いではなく、罪深い自分の信仰の浅さが、発言したもので、間違いを
 犯したのは、私自身の罪です。」と謝罪すべきだと思います。        (2022年11月30日)

倍元総理の銃撃ー2(献金について)

 私はプロテスタント・キリスト教徒で、献金は「毎月」しています。一応収入の何%という基準はありますが、税金のように収入を調べて
 きっちり納めさせるというものではありません。信者の意思に任されています。

 教会側から「これ位の予算を組んでいます・・・献金にご協力ください・・。」というお知らせはありますが、強制的に集めてもいません。信者の
 意思に任されています。

 私はこの献金は「教会がそこに存続しているために必要なもので、信者にとってはある程度義務だ」と思っています。教会がない信仰って
 私にとっては考えられないからです。

 キリスト教には「無教会主義」という宗派があり、私の知人には「無教会主義」のキリスト教信者もいます。公民館や民間の一室を借りて礼拝を
 行い、主要な信者が代わる代わる聖書の解説をしていると聞いています。教会の建物の維持も牧師の生活費も必要ないので、献金の額は
 かなり低く、使った費用を信者数で均等に割って支払っていると知人は語っていたと記憶している。

 今回「旧統一協会(世界平和統一家庭連合)」がクローズアップされ、献金の強要が問題視され「霊感商法」ともども問題にされています。
 私が若かりし頃、問題になっていた商法ですし、カルト新興宗教といわれていました。

 この新興宗教を信じている人の献金は、強制だけで献金しているのでしょうか・・・?中には喜んで全てを捧げてしまう信者もいたかもしれません。
 信仰とはこうしたものだとも言えます。

 私たちも「ただ信ぜよ・・ただ信ぜよ・・信ずる者はだれも皆救われん。」と賛美歌を歌っていますし、私の母の弟は、仏教を信仰していますが、
 最高級の戒名をつけてもらうため生前に1,000万円をお寺に寄進したと言っていました。

 位の高い「戒名」をこの世に残して極楽浄土へ行きたかったようです。信じる者にとってはこれが出来るのです。私は「天国や極楽に身分の
 差はない・・。」と信ずる者なので、こんな形の寄付は致しません。信仰とは信じないものにとっては「馬鹿げたこと」なのです。

 ただ、これらの多額の献金や寄付・・・この世でするものである限り・・見栄の感情の表れで、信仰の真実ではないと私は感じています。
 根底には虚栄心があり、これと信仰が綯い交ぜになった行為だとも思えます。

 安部元総理を銃撃した犯人のお母さんも多分、強迫観念や虚栄心に訴えられ、その部分が一億円もの献金をしてしまった可能性を私は
 想像してしまいます。感情を高揚させられて献金したようにも思えてきます。

 このカルト新興宗教を信じた人たちは、この新興宗教を信じて喜びがあった人もいたのではないか・・・と思ってしまいます。
 私は認めませんが、信じた人には「これが信仰だ・・・。」と思ったのではないかと思ってしまいます。

 冷静に考えると・・・また人間的な思いで考えると・・・馬鹿馬鹿しいものが信仰だともいえると私は思っています。

 騙されて入信した人を除けば、この宗教を排除しなければならない理由は難しいと思います。これ、アルコールや薬物中毒、賭け事中毒、
 好きな異性に入れ込んでしまって資産をなくしてしまったのと同じです。アルコールや賭け事は無くしていませんし、異性も存在しています。

 うんちとお味噌の違いを見分けられない信仰とも言えますが・・・信教の自由の国では取り締まりはかなり難しくなると思われます。

 私は二つの理由から信仰を持ち続けているといえます。一つは死後の行き先をはっきりさせておきたい・・・行き先の決まった人生が
 送りたい・・・。
 あと一つは、生かされていることに感謝し、人間の持つ高揚する感情や強欲を少なくした人生が送りたい・・・。感謝する信仰対象を持ち、
 冷静に・平安に生きていきたい・・・。

 神様にそういう自分に導いてください・・・と祈りながら生きていると神様はそのように導いてくださると信じている信仰なのです。

 私にとって献金は信仰をもって生きる者にとって、当然の必要経費で違和感はまったくありません。ただ、生きている間に全てを捧げてしまったら
 その後の生活と信仰生活は続けられるのか・・?家庭を壊してまで、回りとトラブルを起こしても尚、また借金してまで献金をするものなのか?と
 考えられるくらいの冷静さと常識は必要かと思われます。

 生きてゆくのに、バランスの良い常識と信仰とは必須だと私は思っている。     (2022年8月3日)



 追記=今回の事件で「旧統一協会(世界平和統一家庭連合)」がクローズアップされ、献金のイメージが悪くなったかもしれません。しかし、
      正しく献金している人々には、惜しむ気持ちは無く、信仰に必要な献金を喜んで捧げているもので、強制されたり脅迫されて
      差し出しているものではありません。多少、質素を伴ったとしても生活に支障のない範囲で可能な金額を献金していることを
      お知らせしたい。


教会税

 「旧統一協会(世界平和統一家庭連合)」の献金問題がマスコミで騒がれ始めて長きにわたっていますが、NETのニュースによると、
 「旧統一協会(世界平和統一家庭連合)」は献金を収入の3割を基準とする方向で調整しているとか・・・?

 アイスランド、オーストリア、スイス、スエーデン、デンマーク、ドイツ、フィンランドでは教会税という税金があって徴収されているとNETに
 掲載されています。ドイツでは8%~9%であるらしい・・・ただプロテスタントの「ルター派」は教会税制度を利用せず、独自に献金を
 集めていると書かれていました。

 注=以前テレビに出演したジャーナリストの「手嶋龍一」さんは、(もしかすると宮家邦彦さんだったかも・・・・?ひとりごとなのでご容赦)
   自分がドイツに駐在していた時、「宗教税」を8%支払わされていて、ほかの宗教税制度のある諸国に比べて宗教税はドイツが最も
   高い・・・と話されていたのを記憶しています。NET検索では、5%程度が平均だと書かれている記事もあります。

 日本は、お寺や神社では、必要に応じて寄付を募って、建物を建てたり、修復したりしていて、寄進という寄付に頼っていますし、ご住職の
 生活費は檀家の年会費とお葬式や仏事の謝礼金で賄われているようです。

 私はプロテスタントのキリスト教信者ですが、献金という形に頼って、教会の運営・保持を行っています。

 日本では宗教税なるものは無く、自由意思による捧げものであります。

 献金は、強制されるものではなく、自由意志であるべきだと・・私は感じています。普通の信仰心があれば、お寺や神社・教会などが
 存在していてほしいと願うのが普通だと思うのです。経済状態に応じて、金額は決めればよいと思うのです。収入が低いのに8%は
 辛いでしょうが、収入が多い場合は10%でも生活には支障がないと思うのです。

 私は、熱心な神仏混合信仰の家に育ちました。毎朝、湯気の立ったお茶が供えられた仏壇に手を合わせて(お茶祷)、ご先祖さまに
 「今日一日何事もなく、元気でいられますように・・・」と祈りなさい、と躾けられて育ったし、お祭りやお正月の行事、お盆や七夕、お彼岸の
 お墓詣り、亡くなった人に対する行事・・など家族で守っていた家で育ったのです。

 ですから今、キリスト信仰ですが、実家や親せきの仏事は排除しないで参加し、頭を垂れて挨拶して死者に敬意を示しています。
 キリスト信仰でなければいけない…という信仰になり切れません。

 嫌でないのに何故、キリスト信仰に改宗を・・・?と疑問でしょうか・・・?

 私何故か信仰深く、信仰のない人生が物足りないのです。感謝して生きる信仰対象をもって人生を送り、終わりたい・・・そういう願望が
 常にあります。

 ある程度成長して実家から離れて一人暮らしになったころ、手を合わせる仏壇がないことに、不満を感じる時が生じるようになりました。

 ふつう日本の宗教は、家に属していて、その家を継いでゆく人が、お墓や仏壇に置かれた位牌、そして神事を守るのです。

 女性や次男・三男などは、新しく作った家族に死者が出るまで仏壇がありません。(結婚して家を継いだ場合は、既成の宗教を
 受け継ぎますが・・・)これ、信仰をもって生きる者にとって、何処に・・・誰に・・・手を合わせお祈りすれば良いのか・・・迷うのです。

 そんな理由からキリストにたどり着いたのです。いちど強制的に信者にされそうになった宗教が一つありましたが、それには屈しません
 でした。信仰は強制されるものではないと・・・強く感じたからです。その時、あまりにも理不尽な強制的入信勧誘姿勢だったので今でも、
 その宗教にはトラウマがあり、大嫌いです。

 信仰は強制してはいけないと思います。

 「旧統一協会(世界平和統一家庭連合)」の2世信者が「宗教による虐待」という虐待防止対策の種類を作ってほしいと願う人々が
 多くいることはとても残念なことです。

 そして、献金も収入の3割を基準とするには無理があるとも感じます。今まで多くを捧げさせてきたことに慢性になってしまった献金感覚
 だとも受け取れます。

 宗教税にも反対ですが、献金は必須の必要経費でもあることは確かでもあり、どういう基準で、どういう献金をするかは、心して考えるべき
 支出だと思います。

 ただ私は、宗教団体があまりにお金持ちになることには、喜ばしく思わない人の一人です。ある程度お金を世の中に使うと、そこに仕事が
 生まれる・・・多くの人が働いて収入を得て、その中から少しづつ、感謝の気持ちを捧げて、宗教が成り立っている世界が、私は理想です。

 お金はある程度、社会で使い回されて生きてくると思うのです。宗教団体銀行の中で溜まっているお金は、流れていない水たまりの水が
 腐ってきて新鮮な水でなくなる様に、生きたお金であるか疑問です。宗教団体は、必要な資金だけで清貧に運営されている団体を私は
 理想としています。足りないのも困ったことではありますが・・・。

 多くの献金で政治を動かそう・・・とか、世の中を変えようとか、人の心を同じ信仰に導こうとか・・そういう方向に宗教を利用するべきでは
 無いと思います。             (2022年10月5日)


信仰の誤解

 「旧統一協会(世界平和統一家庭連合)」がマスコミで騒がれるようになってから、次々と実態が明らかにされていますが、この問題によって
 信仰のイメージが大きく下がってしまいました。

 信仰をもって生きている者にとって、「信仰は危ないもの・・・」というイメージを持たれてしまったかもしれないことがとても残念です。

 しかし、考え方によって危ないものではなく、穏やかに生きる根源が信仰にあるということも訴えたい気持ちがあります。

 私は信仰対象があることによって、平常心が保たれる生き方が出来ています。これを失うと心の落ち着きどころを失って、心もとない・・。
 心が安定しない・・・。それが気持ち悪い・・のです。すっきりしないのです。

 たぶん、仏教と神道を信じている親戚の人々も、死者を丁寧に供養し・・先祖に感謝し・・仏事を守って安心していると思いますし、お祭りや
 お正月の行事、初詣、神事を守ることで心穏やかであるのではないかと思います。

 私が信じる神様は「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、他人の財産を貪るな…他」を命じています。
 これを守っただけでも、平安はあると思います。

 また、神に祈るということは・・・私にとって、神とお話しすることで・・・人に話しても解決出来ないことを、祈りという形で神様に訴えてみて
 います。結局自分の心が自分でヒントを得て解決することになりますが、自分以外の 誰か(神様)に心の内を訴えることで、案外自分を
 客観的に見たり、諦めへの決断(物事に執着して深みにはまってしまうことからの回避、結果を神様(運命)に委ねる)、それによって
 良い考えに至ることが多いのです。

 信仰心がある人はこれを「神が導いた・・・。」と受け取りますが・・・自分で気づいたことに外なりません。しかし、冷静にされ気付かされた
 ことは確かです。

 「旧統一協会(世界平和統一家庭連合)」を信じた人々は、人が言ったことに素直に従ったり、先祖の罪が貴方に祟りを与えているという
 ような恐怖から逃れるため、「地獄の落ちる・・」などと脅迫されたたためにお金を支払ったに過ぎないように思え、また、高額献金で
 褒め称えられ特別扱いされ「優良信者」と言れることが気分良かったようにも思えます。

 これは信仰ではなく、人間の業を高揚させただけと感じます。これ信仰ではない・・。

 人間の業(強欲)を遠ざけ平安を得るのが信仰だと、私は思うのです。

 今回の問題は信仰心の誤解を高めたようでもあり、残念です。           (2022年8月23日)