ヨルダン
                                              2014年1月24〜2月2日
 グローバル・ユースビューローの「ペトラの夢 ヨルダン周遊・9日間」に参加してヨルダンへ。
 約5年前「ヨルダンとシリア」へ行く旅行を申し込んでいましたが、夫が癌と誤診され、治療のためキャンセルしました。

 再び希望して挑戦しましたが、その間にシリアが内戦状態となり、シリア旅行は不可能になりました。そのため今回ヨルダンだけの
 旅行となってしまいました。エティハド航空と言う航空会社の飛行機にも初めて乗り、アブダビ経由アンマンに到着。成田・アブダビ間は
 エティファド航空ビジネスクラス往復です。

 死海で浮遊体験。リゾート地アカバに。そして映画「アラビアのロレンス」のロケ地となったワディラム。ヨルダン渓谷とベタニア。
 モザイクの町マダバ。モーゼの終焉の地と言われるネボ山。「新・世界七不思議」に選ばれたペトラ遺跡。首都アンマン。
 ローマ遺跡の古代都市ジェラシュ。など見所は多くありました。

 中東への旅は、エジプト、トルコ、イスラエルに次ぎ4ケ国目です。やはり 異国情緒たっぷりです。欧米と違った情緒が魅力です。
 ベドイン文化や食事も興味深いものがあります。市場の様な商店街は、エジプトやトルコ、イスラエルで体験した商店街でした。
 街中で油で揚げ、即売っていたシリア アレッポ地方のお菓子「カラベージ・ハラップ」を買って皆んなで少しづつ立ち食い、美味しかった。

 ヨルダンを旅行して感じたことは、貧富の差こそあれ 穏やかに暮らせているように見え キリスト教徒は少なく、イスラム教徒が
 ほとんどを占めているというお国柄にしては、キリスト教に理解があるように見えたのは、キリスト教関連の遺跡や聖地により、
 観光客や巡礼者が落とす経済効果の恩恵も大きい事があるとも考えられます。

 そして 王国で王様が統治する国であることにも理由があるかもしれません。到着した日、王様の誕生日で お祝いの歌を歌いに
 王宮に行くという 民族衣装を着た男性合唱団が整列して大きなトラックの上に並んで待っている風景がバスの窓から見えました。
 沢山の高級バイクが周りに控えていました。バイクに誘導されて王宮に向うようでした。

 日本に皇室があるように、国民を一つにまとめる心理的な要因を国王が担っている事が、イスラム教でまとまる国との差が
 あるのかもしれないとも思えました。ホテルや大きいレストランなどには、王家3代の王様や皇太子の写真が飾られていました。

 また アンマンの町には、隣国シリアから逃れてきた難民の人々が住んでいるという地域もありました。

 それに イスラム教のモスクが、大きいモスクが目立たない。トルコやエジプトでは、大きいモスクが沢山建っていました。
 ここヨルダンでは、私たちが通った場所には、小さめの地味なモスクがそこかしこに立ってたのを記憶しています。

 ただ トルコやエジプトは、モスクの中を観光客に公開していますが、ここヨルダンでは、モスクにはイスラム教徒しか入れず、
 観光客や他宗教の人には開放していないと、ガイドは語っていました。信者の神聖な祈りの場所として、固くその存在理由を
 守っているようです。

 ちなみに ヨルダンは、正教分離と信仰の自由を実行している国のようです。そしてインターネット調べでは、中東で
 キリスト教徒が守られている国は、エジプトのコプト教徒とヨルダンのキリスト教徒くらいだ と書いているものもあります。

 それと私たちが乗っていたバスには、拳銃を持った警官が常に一人同乗していました。安全のためのようでしたが、退屈そうに、
 後ろの方の席で携帯電話で話をして過ごしていました。

 規則上の措置とも思えましたが、対岸のイスラエルに行った時、若者の旅行者グループには、自動小銃を持った軍人が
 3−4人同行していなくてはならないという規則になっていると説明していました。5−6人のグループに3人の軍人が
 同行しているのを見ました。やはりこの辺りは少々、危険地域なのかもしれません。

 ただ ヨルダンでも時々車の路上検問がありましたが、警官が証明していたようで、通過許可が早く出るようでした。
 旅行会社の便宜上のシステムかもしれません。


 追記=アンマンからアブダビに飛行中、隣の席のヨルダン人が夫に話しかけて来ました。「ヨルダンは学校に行けない子供が
     多い。」 とか 「現在オーストラリアで仕事をしている。」とか 「日本は地球儀上、どの位置にあるのか?」などと
     パソコンで世界地図を示しながら話した後、「日本では、結婚するのに契約金は平均幾らかかるか?」と聞いていました。

     夫が「Nothing!」と答えると、何度も「幾らだ!」と聞き返していて「ナッシング!」が、信じられないと言う態度でした。
     イスラム圏では、結婚する時、多額のお金を、新郎が新婦側に支払うようですし、離婚するときは、幾ら支払うと、契約して
     結婚すると言われていますが、やはり本当のようです。


 スウェイメ夜景  シャンデリア  ペトラ・バイ・ナイト  民族衣装  ワディ・ラム ジェラシュ 



 死海

 アンマン到着後バスで死海のほとりのホテルへ。ヨルダン渓谷を走り海抜−425mの死海を眺めながらホテルへ向かいました。
 アンマン空港は海抜約1200m。その地点から海抜約−400mまで下降して行き、途中海抜0m地点で記念写真を撮りました。

 また 旧約聖書の中で 死海付近に沈んだと言われるソドムとゴモラの町から救いだされたロトの妻が「後ろを振り返っては
 いけない」という神の言葉に背いて、振り返って町を見たため 塩の柱となったと記載されている柱だと言われている石の柱が
 岩山の上にある場所にもバスストップして撮影タイムとなりました。。

 海水の塩分濃度は約30%で通常の海水の10倍だと言います。そのため海水に入って沈むことはないようですが、慌ててもがいて
 大量に水を飲み溺死することはあると言います。浮遊体験しましたが、沈む方が難しく、深い位置で足を地に着くことが難しい、
 かなり浅い位置まで帰って来ないと足が沈まず、立ち上がることが難しかったです。立ちあがるのに、警備員の男性に助けてもらう
 という失態を演じてしまいました。(旅の恥は かき捨て!)大きめのサンダルを履いたまま浮遊したのが、足が沈まなかった
 原因とも思われます。

 死海に注ぎ込む川はヨルダン川ほか幾つかありますが、出て行く川がなく、海水が蒸発して塩分濃度が高くなっていると言います。
 どんどん干上がって海抜も低くなっている事や塩分濃度も高くなって沿岸に塩の塊が出来ている事から最近、沿岸の国イスラエル
 ヨルダン、パレスチナ3ケ国で、紅海から水を引く計画が合意されたと言いますが、パレスチナとイスラエルの関係が難しいことから
 実現には時間がかかるだろうという見方が大きいようです。


                            死海とその周辺、浮遊体験 
写真集


 バプティズムサイト(ベタニア)

 洗礼者ヨハネがイエスさまに洗礼を授けたという場所がヨルダン側にあります。現在はヨルダン川の流れが変化したため、
 水は流れていませんが、発掘研究によりこの地であったであろうという地があります。水が流れた跡があり、6世紀ごろから
 3度にわたり建て替えられた教会の跡が、床のモザイク跡などに残り証明されています。

 ヨルダン観光協会が発刊する周遊マップには、次のように記載されています。
      ヨルダン渓谷は巡礼で訪れる人にとって深い意味合いを持ちます。エリコの対岸の地は、およそ二千年もの間、
      洗礼者ヨハネがイエス・キリストに洗礼を施した場所であると言い伝えられてきました。
      1996年以降、ヨルダン川とテル・エル・ハラール(聖エリアの丘)の間に位置する土地において、驚くべき考古学上の
      発見があったことにより、この場こそが新約聖書に記述された「ヨルダンの向こうのベタニア」、すなわち
      洗礼者ヨハネが住み、イエス・キリストに洗礼を施した地であると認識されるようになりました。テル・エル・ハラールの
      別名、テル・マール・エリアス(聖エリアの丘)は、この地から昇天した預言者エリアの名を今に伝えています。

 その後 現在のヨルダン川の流れの傍まで行きました。約5メートル先はイスラエルです。以前イスラエル旅行で対岸に立ち
 ヨルダンを眺めた経験があり 思い出しました。「ああ 向かい側に立ったわ!」 と。
 そして 想像していたよりずっと細く 「これがヨルダン川!」と ちょっと愕然とした思い出があります。

 この地は聖書にはベタニアと記載されていますが、一般にベタニアは、イスラエル近郊の地 オリーブ山の南東麓にある
 パレスチナの村アル=エルザリアであろうと言われているようです。古くはこの辺りまでベタニアと言われてたのでしょうか。

 またこの地は、9−11世紀頃ロシア人が作った洗礼用の巨大プールがあった所として、ロシア人の聖地としても知られていて
 近くに、近代的な大きな洗礼プールやロシア正教の教会が建てられていました。


                                       写真集


 アカバ


 アカバはサウジアラビア国境まで約21キロ、紅海の向側のイスラエルには約5キロ、そして対岸のエジプトのシナイ半島が
 よく見える位置にあるアジア、アフリカ、ヨーロッパからの重要な海路であり、多種多様な楽しみが味わえるリゾート地でもあります。

 温暖な気候と穏やかな水流が、サンゴ礁の成長や多種多様な海洋生物の繁殖に絶好の環境を与えていると言われ、人懐っこい
 ウミガメやイルカ、色鮮やかな魚の群れなど、ダイビングに適したスポットが多いようです。海に入りたくない人には、潜水艦や
 グラスボートでの海中の散策が楽しめるようです。


 私たちが泊まったホテル「ケンピンスキー・ホテル アカバ」からも対岸のイスラエル・エイラートやエジプトのシナイ半島の夜景が
 みられました。イスラエルとヨルダンの関係改善により、エイラートからの観光客も増えていると伝えられています。

 ここには十字軍時代に建設された要塞が残っており、アラビアのロレンスが率いた軍隊が、オスマントルコ軍と戦って、この要塞を
 内側の山側から攻めアカバを攻略したと言われています。


 ワディラム

 「とてつもなく広大、そして響き渡るこだま、まるで神のような」 とT・E・.ロレンスが表現したと言われる砂漠。ここで映画「アラビアの
 ロレンス」が撮影されたと言う場所ですが、一つとして同じ岩の無い、多くの岩と砂漠が織りなす美しい手つかずの自然でした。

 ビジターセンター前には「知恵の七柱」と名付けられた7本の柱状の岩がある岩山がありました。この名は、T・E・ロレンスが
 第一次世界大戦後に出版した回想録のタイトルだと言います。


 4WDの軽トラックに乗っての砂漠ドライブですが、3台共に日本製軽トラックでした。途中 山に登って380度のパノラマを
 見ました。高いところは気持ち良いです。ラクダで行く部分もあり、希望者はラクダで進みました。私たちは、ラクダに乗った
 経験があったので4WDで進みましたが、フォトチャンスとしては絶好の風景でした。アラビアンサイトシーン雰囲気たっぷりです。
 楽しい半日でした。

 ペルーのワカチナ砂漠のオアシスを訪れた時、4WDで駆け登る砂漠体験をしましたが、この時はシートベルトをしっかり付けて
 45度はあろかと思われる砂山の斜面を一気に駆け上り、サンドボードに腹這い状態になって滑り降りました。

 そいった遊びはありませんでしたが、この砂漠での体験もまた珍しい体験でした。


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 小ペトラ

 ナバティア人の小さな遺跡で「小ペトラ」と呼ばれていました。大ペトラの初期のぺトラのようです。

 ナバティア人はもともと※遊牧民だそうですが、紀元前6世紀頃ここに定住するようになり、商人として活躍するようになりました。
 次第に定住するようになったナバティア人は、紀元前4世紀頃「ナバティア王国を建国し、交易都市として発展してゆきました。

 岩をくり抜いた神殿や岩の割れ目のシーク、雨水をためてゆく貯水槽、食事部屋、礼拝所などのほか天井には、フレスコ画が
 残されていて古くから人の営みには、機知と工夫に富み、尚かつ芸術や音楽などの楽しみをも、併用しつつ人生を送っていた事が
 分かります。どの遺跡にも必ず、礼拝所や神殿があり、人の根源より信仰心とは切り離されないものがあったことが理解できます。

 ※ナバティア人は農耕民で、ぶどうの木やオリーブの木を植え、ラクダや羊、山羊や馬を飼育していたと書かれているものもあります。
  治水に優れ、水路と溜池の複雑なネットワークを構築して、遠くの豊かな水源から、都市の中央に水を引いたりしています。

 彼らが繁栄したのは、東の中国と西のローマを結ぶ交易によるルートの中心に位置していたからだと言われています。
 エキゾチックな品物を積んだキャラバンが休息のため立ち寄り、水や安全の確保を提供したといわれ、その見返りに通過する全ての
 商品に税をかけ、その収益から次第に裕福になって行ったと言われています。

 自然の岩山が要塞となり、岩の割れ目のシークが強硬な門となり、安全が確保される適正な場所となっています。

                              写真集

 ペトラ

 小ペトラに比べ、かなり大規模に発展しています。これ程歩くと想像もしていませんでしたが、一度は見ておきたい場所であったと
 感動が残りました。 岩の模様や色の美しさと共に、人間の英知を感ぜずにはいられません。紀元前6世紀には、現在の形に
 なっていたと言われています。自然の要塞のような岩山に囲まれたペトラの都市には、後に作られたローマ遺跡なども作られ
 ナバティア人独特の建築物とコラボして調和していました。

 昼食後、約800段の階段を登ってエド・ディルへ。なかなか到着しない階段の道のり。ろばに乗って登る人も多く、足での登頂は
 なかなかのものでしたが、達成感がありました。 モーゼの兄が眠るというアロン山が、頂上からは近くに見えました。この山
 旧約聖書では、ホル山と呼ばれています。エド・ディルはローマ帝国に併合され、キリスト教が伝えられてから、修道院として
 使われていた場所です。

 ナバティア人は読み書きが出来、聖書の言語であるアラム語の方言を話しました。また 見事な建築物のほかに、優れた
 陶器製作技術でも有名だと言います。

 紀元前64年にローマ人が来て、ナバティア王国を併合し、ローマ支配下で栄、巨大な劇場や列柱を配した道路の舗装など
 ローマ様式が取り入れられて行きました。 そしてローマ人は収益性の高い交易を抑え、ルートがペトラを迂回するようにし、
 ペトラが衰退して行ったと言われています


 夜には「ペトラ・バイ・ナイト」があり、エル・ハネズと呼ばれる神殿前まで岩の裂け目 シークを、ローソクのランタンに導かれる
 ように進み、神殿の前にも多くのロウソクのランタンが置かれ、その中で、ベドイン楽器の演奏と歌、笛の音でエキゾチックな夜を
 過ごしたと同時に、満天の星空に感動しました。北斗七星など星座がはっきり識別できました。


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 マダバとネボ山 モーゼの泉

 ペトラの近くのワディ・ムーサという町に「モーゼの泉」と言われる場所があり、エジプトから人々を引きいてカナンの地を目指した
 モーゼは、多くの人々から、喉の渇きで不平を言われた時、神の声に従って岩を2度杖でたたくと、岩から水が流れ出て喉の渇きを
 潤す事が出来たと旧約聖書に書かれている場所がありました。今でも混混と水が湧きい出ています。

 「モザイクの町」マダバには聖ゲオルギス(聖ジョージ)教会にある鮮やかな色彩のモザイク地図が残されています。6世紀に作られた
 この地図には、エルサレムやその他の聖地が記されていて、6世紀頃のヨルダン、パレスチナ、エジプトなどを表しています。
 もともとは25m×5mの大きさで、今日でもその大部分を見る事が出来ますが、現存部分は約35%に当たるそうです。
 遥かナイル川下流の三角州地帯に至るまで、丘陵や渓谷、村落や都市などが描かれていてヨルダンに於いて比類の無い

 モザイク地図だと言われていますが、他にも傑出したモザイク画も残されていると言います。

 ネボ山はモーゼが眠る地と言い伝えられているヨルダンの聖地です。その山頂から見る風景は、建てられた家や舗装された道路
 などを除き、モーゼが目にした風景と変わらない絶景だと言います。
 この丘には4世紀末にモーゼの昇天を記念した最初の教会が建てられました。教会のモザイクに覆われた床の下には、岩盤を
 くり抜いて作られた6つの墳墓が見つかっていると言います。現在の教会の床には残存しているモザイク画を見る事が出来る
 そうですが、生憎工事中で、教会内には入る事が出来ず、外には荒野をさまようモーゼが手にしていた青銅の蛇と
 イエス・キリストがかけられた十字架を象徴しているオブジェの十字架が建てられています。

 ここ標高710mの丘に立つと何故か、懐かしい故郷を見下ろしている様な心地がしたのは、何だったのでしょうか?
 旧約聖書によると、モーゼは120歳でこの山の頂上で昇天したとされています。

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 アンマン

 アンマンでは紀元前12世紀頃のアンモン王国時代の要塞が残る丘に登り、眼下に今なお残る古代ローマ時代の劇場や王宮を
 有するアンマンの町を眺めました。

 この丘には古代ギリシャ時代のヘラクレス神殿の一部が残っていて、ヘラクレスの像の一部、肩や指の一部が展示されて
 いました。また ここにある考古学博物館を見学し人類史上最古の人の像を見る事も出来ました。

 ここアンマンは、9000年前の石器時代からの定住地だと言われ、定住の歴史は世界最古の部類に数えられると言います。

 紀元前12世紀〜紀元前540年アンモン王国の首都であり、紀元前540年から紀元前333年はペルシャ支配、
 紀元前330頃〜紀元前2世紀頃はギリシャ支配、紀元前63年〜紀元4世紀はローマ帝国支配と多くの支配者に支配されました。

 砂漠と肥沃なヨルダン渓谷、その間に広がる丘陵地帯にあるこの町は微妙に混ざり合う新しきものと古きものの対象美が魅力的な
 町です。過去の歴史の痕跡を残すこの町に泊まった「フォーシーズンズ・ホテル」。近代的でセンスの良さと広く使いやすい部屋は
 角部屋でした。

 近年の町の発展と、気候の温和さからヨルダンの人口の約半分がアンマンに集まっていると言われます。

 要塞のある丘からアンマンの町に下り、街や市場を散策。道端で揚げて作る シリア・アレッポ地方のお菓子「カラベージ・ハラッブ」
 というお菓子を買って少しづ試食しました。美味しかった。 要するに棒状のドーナッツです。

 このアンマンの名前の由来は、ロトの子アモンの子孫アモン人から来ていると言う説があります。アメン神(アモン神)から・・という
 説もあります。

 ロトは旧約聖書によると、ソドムの町に住んでいましたが、ソドムの町が堕落したために神は、ソドムの町を滅ぼすことを決め
 滅ぼされました。
 その時、神はロトの家族を選び救い出されました。ロトの妻は神の命令「後ろを振り返ってはならない」と言う命令に背き、
 振り返って ソドムの町が滅ぶのを見てしまったため、塩の柱に変えられてしまったといいます。その後生き延びたロトは、
 二人の娘と交わり子供を産ませました。長女の子モアブ、二女の子アモンが生まれ その子孫としてモアブ人、アモン人が
 生じたと言われています。

 二女の子の子孫アモン人の名に由来していると言われるアンマン。 街の雑踏の空気は良いとは言えませんが、魅力的な
 雑踏でもありました。あまり治安が悪いようには感じませんでしたが、現実は分かりません。


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ヤボク川

 ジェラシュに向う途中、旧約聖書に書かれているヤボク川に降り立ちました。現在の名前はゼルカ川。

 このヤボク川のほとりで、ヤコブは神さまと格闘をしたと言われています。この川のどの辺りなのか、
 分かりませんが、「こんな普通の川なんだ!」と思いました。でも見て良かったと思います。
 聖書が事実に基ずいて書かれている事の証を見たようでしたから・・・。

 旧約聖書によると、ヤコブはこの川のほとりである夜、何者かと夜明けまで格闘したと言います。
 その人はヤコブに勝てないと思い、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘している内に関節が
 外れてしまいました。その人は「もう去らせてくれ、夜が明けてしまうから」と言ったが、ヤコブは
 「祝福して下さるまで離しません」と答えたところ「お前の名はなんというのか」と聞かれたので、
 「ヤコブです。」と答えると、その人は「お前の名はもう ヤコブではない。これからはイスラエルと
 呼ばれる。なぜなら神と人と闘って勝ったのだ。」と言われたと書かれています。

 ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていたので、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の
 筋を食べないと 言われている由縁のようです。



 ジェラシュ

 ここジェラスの遺跡は、想像を超える広大さと保存状態の良さに驚きでした。期待していなかったこの観光が、素晴らしいひと時に
 なりました。今までに見たローマ帝国時代の遺跡では、ほぼ最大で最も保存状態の良い遺跡だったのです。

 紀元前63年にローマ皇帝ポンぺウスに征服されてから都市造りが始まり、この都市の黄金期が到来しました。
 競馬場や劇場、ハドリアヌスを記念した門、広い公共広場、浴場、塔、列柱を配した通りや商店街、寺院や噴水、上下水道設備に
 至るまで、徹底した古代都市が存在していたのです。地震対策も施されていて、柱が揺れて倒れにくい工夫が施されているのが
 見られました。

 地に埋もれていたこの遺跡は、約70前頃から発掘修復が行なわれ、ヨルダンではペトラの遺跡に次ぐ人気と観光客を集客して
 しているそうです。まだまだ埋もれている遺跡が丘の下にあり、今後発掘修復が続けられるといいます。

 東洋と西洋の和合したこの都市は、建築、宗教、言語などにギリシャ・ローマ世界とアラブ・オリエント世界の伝統、文化が調和と
 共生に至る道のりを見出すことが出来ると言われています。

 アンマンから北に約50キロ バスで一時間ほどのところにあり、半日観光として最適の遺跡です。


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