ひとりごとに書いた文章を抜粋して掲載しています。興味ある方はお読みください。 |
異論
私、キリスト教徒で毎週日曜日には、礼拝に教会に出かけます。コロナの中でも注意を払いながら主日礼拝を守っている信徒の
一人ですが、時々礼拝の説教で牧師の説教に批判的な思いを抱きながら聞いている時があります。
昨日も一つ異論がありました。わが教会の牧師は「日本の宗教観は、自動販売機のようなもので、250円入れれば250円のコーヒーが
出てくると期待している・・・そういう信仰だ。」というようなお話でした。果たしてそうでしょうか・・・?私はそうは思っていません。
日本の信仰心をご利益信仰と言われがちですが、私の育った実家の信仰はそうではありませんでした。
神仏混合信仰で、三島神社と禅宗の曹洞宗を信仰している実家です。実家はご利益は期待してはいませんでした。
何時もおばあちゃんが言っていたことは「ご先祖様に感謝しなさい。ご先祖様あっての自分・・・ご先祖様あっての〇〇家。ご先祖様が
いなかったら、あなたは生まれていない。こうした財産も残してもらって無かったら生活に困窮している・・・ご先祖様のお陰・・・だから、
ご先祖様に感謝しなさい。」と言うのが口癖で、毎日、湯気の立つお茶やご飯を仏前に供えるのも感謝の気持ちを持ってのこと・・・、
お位牌に向かって手を合わせるのも、ご先祖様に感謝の意を表すことだ・・・。」と言っていました。
神社信仰は、五穀豊穣、自然の恵みを、祈り、感謝することだと教わっていました。
ですから、日本人の信仰心がご利益信仰だとは思えないのです。神社やお寺でお賽銭を入れるのは、ご利益のためではなく感謝の
気持ちを手持ちの小さな金銭でよいから示すものだと教わっていました。大金を投げ入れれば、それに応じたご利益がある・・とは
教わりませんでした。
おさい銭箱の前では、習慣的に10円や100円を投げ入れていました。その金額によってご利益に違いがあるとも思っていませんでした。
お葬式の時の位の高い戒名には、多額のお金がいり用のようで・・・・これには真実はないと思っています。しかしこれは、この世で
生きている人の見栄ではないかと私は思っている。天国や極楽には、身分の差は無いように感じていますし、亡くなった本人が
つけてくださいという訳ではなく残された生きている人が戒名をお願いする訳で、亡くなった人と生きている人に対して「位の高い戒名を
付けましたよ。」との自己満足では・・・・と思います。
牧師に叱られるかもしれませんが、私はキリスト信仰も実家の神仏混合信仰も、そう変わりはないと思っています。
正しい信仰姿勢こそ大事・・・、自分が信じたい神であれば、他から強要されたり、こき下ろされたりするものではない・・と思えるのです。
唯一の神でないと間違った信仰と思うのも、個人の勝手で、正しい神を信仰しているかどうかは、後になってみないと解らない・・・
この神こそ神と信じていても、それが正しかったかどうかは、その時が来ないと解らない・・・、信仰とはそういうものではないかと、
私は思います。
だから、自分が信仰している神でないと間違いです・・・と私は断言しない。そして他の信仰対象も批判したりこき下ろしたくない・・・。
一生懸命神の福音を伝えなければ、神に愛されない・・とも思っていない。私の神は無条件で私を愛していて下さる…と信じています。
「神に愛されているから、それにふさわしい人間でありたい・・。」とは思っていますが・・・・。
時々、日本の信仰とキリスト教信仰を比較されるのは牧師の仕事に他ならないと思います。しかし日本人の信仰が、ご利益信仰と
思い込むことには、私は批判的です。
キリストの神を信仰していても、お願いをお祈りします。そしてお祈りしたことに向かって努力もします。同じことだと思います。
外国のカトリック教会に行っても、それほど感動しない。ただすごい大きな石造りの教会を見て、人間の力のすごさを感じるのに対して、
日本のお寺や神社ではなにか神聖な空気を感じるのは何故か・・?と思う。そして時々「この空気はなんだ・・・。」と癒しを感じる。
パワースポットのような空気を感じる時もある。日本の神社やお寺は不思議な落ち着く空間であることが多い。
キリスト信仰が「人格信仰」と言われ神の真理を主張するのに対して、自然と共存し自然に溶け込んで信仰対象が主張をしない日本の
宗教との差なのかもしれません。キリスト教が人間に教理を教えているのに対して、どうも日本の信仰は、自分で感じ取れ…自分で悟れ、
と言う感じの信仰姿勢に感じる。これ解り難い・・・・。そして教えられる信仰姿勢も時に上から目線で強制されているようでうざい・・・。
この神を認めない人間は「信仰薄きものよ・・・。」と聖書に書いてしまう。難しいものである。
(2022年2月14日)
注=宗教戦争は、他の信仰をこき下ろし馬鹿にし、自分が信じる神を他に強制することが原因です。信教の自由は、他を排除したり
敵視したりしないことだとも思います。
消えない尊敬
「男子3日見ずんば、刮目して見るべし。」夫がある時私に言った言葉です。
状況は、まだ小さかった夫の甥が、そのころ頼りない子供で、「おいちゃん宿題しとってや・・。」と言って遊びに行っていた子供だったのに、
50歳を過ぎて、介助が必要になった両親の面倒をよく見るようになって、頼りがいのあるたくましい大人になっていることに気づいた時でした。
私の夫は、よく本を読みますし、英語の語彙にも長けていて、私はよく夫の教養にシャッポを脱ぎます。
この言葉を言った時も「どういう意味・・・?」と聞いてしまいました。そして、ネットで検索して、中国の三国志の中である知識人の発した
言葉だと知りました。
私、夫とは5歳の歳の差があります。結婚したあと時々「これ何と読むの…どういう意味・・・?」と聞いて「こんなことも知らないの・・・
常識だよ!」と言われて、言葉を失うことが多々ありました。
この5歳の年の差、大きな差があります。学生時代1歳年上の彼とのお付き合いには無かった成長した大人の男性を感じたものでした。
学生時代にお付き合いした彼は、一つ年上で22から23歳までの男性だった彼しか知りませんが、夫と出会った時夫は30歳にならんとした
成長した男性で、実力、教養、落ち着き、自信が格段に違っていた。
学生時代付き合った男性もきっと、30歳になっていたら、夫位に成長した男性になっていたことでしょうが、23歳くらいのまだまだ成長過程に
ある未熟な彼しか知りません。この差は大きかった。結婚して、家庭内ではだんだん私が強くなって行っても、どこかにこの出会った時の差が
縮まらない感情がずっと消えない・・・。
どうしても、口にこそ出さないけれど・・「かなわないなー」という思いは消えません。 (2022年2月5日)
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